◾️Akashiの再誕生 ReBirth
生きづらさを抱えて、多くの失敗や挫折を経験した私が
どうしてライフヒーリングコーチとして
今に至っているのかをお話したいと思います。
少し長くなりますが、お付き合いください。

◾️誕生
生まれの物語 ―
私は、東京都文京区の空の下に生を受けた。
四人兄弟の長男として、信仰に深く根ざした両親のもとに生まれ落ちたのである。
父は、神父となるべく神学校を卒業しながら、その直前に別の道を選んだ。聖職者として神に生涯を捧げるのではなく、一人の女性を愛し、結婚という現実を選び取ったのだ。その選択の果てに、私は存在している。もし父が神父の道を歩んでいたなら、私はこの世に姿を持たなかっただろう。そう思うと、私の存在そのものが偶然のようであり、また必然のようにも思える。
父はやがて教育哲学を専門とする大学教授となり、母は厳格な家庭に育ち、後に小さな私塾を営む女性となった。生活は決して豊かではなく、食卓はいつも質素であったが、その暮らしは、精神を鍛え、問いを育む土壌となった。
幼いころから私は、宇宙の果てにある神秘や、生きることの意味に心を奪われた。家庭に流れるカトリックの祈りと、公立小学校での日常。その二つの間に横たわる違和感が、私を沈黙と孤独へと導いた。
少年時代の私は、型に収まりきれず、枠をはみ出すように振る舞った。破天荒と呼ばれたその日々も、振り返れば私の魂が自由を求めた証であった。
私の生の始まりには、ひとつの「選択」がある。父が歩まなかった道が、私の存在を可能にした。そうして生まれた私は、今もなお、存在の意味を問い続けている。
◾️環境の変化
十歳の時、父の勤務先が変わった。名古屋の大学から福岡の大学へ。
私は、まだ幼い心でその変化を受け止めきれず、生活の基盤が揺らぐたびに、足元から大地が消えていくような不安に襲われた。
小学校五年生のころ、私はついに心を病んだ。
ストレスからくる不安症、ノイローゼ。世の中の音が遠のき、自分の居場所がどこにも見当たらないような、奇妙な浮遊感に苛まれた。
その後も、転校が繰り返された。小学校から中学校を卒業するまでに、三度。私は教室の机に名を刻むより早く、次の学校へと移っていった。
友を得るより前に別れが訪れ、根を張るより先に土を移される。そんな繰り返しの中で、私はますます「自分はこの世界にうまく馴染めない」という感覚を深めていった。
未来の希望を無くす
高校は県立の進学校だった。周囲は進路の地図を手に慣れた足取りで歩みを進めるように見えたが、私の地図は白紙のままだった。自分が本当に何になりたいのか、何を学びたいのか、どんな才が自分の中に眠っているのか――答えはいつも遠く、指先に触れそうで触れない。
夜、ギターを抱え、歌声を夜風に放つ瞬間だけは、少しだけ軽くなれた。仲間と鳴らす和音の中に、どこか救いがあった。しかしそれも、親の学歴という影や、周囲の期待という重しの前では、儚い浮き草のようにしか感じられなかった。期待はいつしか押し付けになり、私は自分の胸に小石を詰められたように、前へ進めなくなっていった。
そして、高三の秋に、私の世界は静かに崩れた。父が白血病を宣告された。医師は「長くて五年」と言った。その数字は氷のように冷たく、家族の空気を瞬時に凍らせた。経済的な支えも、精神の支えも、一つずつ剥がれ落ちていくような恐怖に、私たちは押し潰されそうになった。大学進学の希望は霧のように消え、私は進路を選ぶどころか、生きる先を見失ってしまった。
それは、私にとってのモラトリアムだった。人生の猶予というより、時間の中で迷子になる時期。今になれば、それはグリーフケアを必要とする、喪失の沈黙の時期だったのだろう。だが当時の私は、その名も知らぬ深い穴に落ちて、ただ底を見つめていた。
高校卒業後、私はアルバイトで日々をつなぐようになった。友人たちが大学のキャンパスで笑い、未来を描いているのを遠くから見ると、胸は酷く狭められた。希望は薄れ、世界は淡い灰色に染まり、私は次第に軽やかさを失っていった。
二十歳のとき、父は二年半に及ぶ闘病の末に逝った。あのときの「長くて五年」という言葉は、最終的に短い刻印となって現れた。父の死は私を、言葉を失わせるほどの絶望の淵へと突き落とした。息ができないほどの虚無と、身体を通り抜ける寒さ。何かを失うことの重さを、私は初めて全身で知った。
私は、その絶望の中で、まだ名前のつかない悲しみと向き合っている。希望を失うとは、未来の光を一つずつ手放すことだ。しかし同時に、その手放しの中で深く根を下ろす何かが、いつか静かに芽を出すのかもしれないと、遠くの自分が囁くこともある。だが今はただ、重力のように沈む日々を、そのまま受け止めるしかなかった。
転機到来
学歴という秤に自分の価値を量られ、鈍い鉛のように沈んでいった日々の中で、私はほとんど自分を見失いかけていた。進学という窓は閉ざされ、未来の地図は破れて、ただ足元の闇だけが残っていた。そんな私をある日、外へ連れ出す風が吹いた。カトリックの修道会が行う里親制度の視察に同行することになったのだ。伴ったのは、実践の人である一人のシスター――白いベールの影ではなく、泥まみれで働く手を持つ人だった。
初めての外国。インドとバングラデシュ。言葉は通じぬことの方が多く、臭いも色彩も時間の流れも、すべてが私の知っている世界を裏返した。辺りは尖った光と埃に満ちていて、生活は外側から見るほどには整っていなかった。だがそこにあるものは、私がこれまで教わってきた価値観の定規では測れない、別種の真実だった。
貧しいとされる子どもたちの瞳は、驚くほど澄んでいて、夜空の星のように静かに輝いていた。その輝きの前で、私が背負ってきた「学歴」「経済」「権威」という札は、急に薄っぺらく、意味のない札切れに見えた。笑顔は通貨では換算できず、手と手の温度は成績表では測れない。私はその瞬間、自分の価値が教科書や肩書きに依存するものではないと、初めて直視した。
希望は、劇的な救済ではなく、静かな目覚めとして訪れた。世界の見取り図が拡がり、私の内側に小さな灯がともる。あの国々で見た子どもたちの目が、私にこう囁いたように思う――「幸せは、外縁の数字や名声の影に宿っているのではない」と。
◾️日本を脱出してアメリカへ
それは転機だった。絶望の淵に垂れ下がっていた私の手を、外の世界がそっと引き上げた。そこで私は、失っていた何かを少しずつ取り戻し始めたのだ。インドから帰国後、
自己表現を試みて、東京のガラス工芸学校を卒業しましたが、
日本での生きる希望が見えず、
24歳でアメリカへ
わずか3000ドルを持って片道切符で渡米しました。
(このときの決断は全てを捨てる覚悟でした。)
カリフォルニアのサンフランシスコでの生活は夢と希望はありましたが、十分なお金はなく、不安と恐れもいっぱいありました。
頼るところなく頼る人もいない状況で、
生きることに精一杯なサバイバルでしたが、
魂は生きていました!
懸命に生きようとすれば、助けてくれる人はいるものです。
労働ビザもない中で、日本の旅行会社の現地採用でガイドやドライバーの仕事をしながら、多国籍な町サンフランシスコでの生活するために
0から有を生み出す旅の出発でした。
どこの国でも生きていける!
そのチャレンジの中で、文化、宗教的な価値観、視野、全てが変わり、
自分の枠、制限が取り払われてどんどん解放されていく体験 をしました。
中南米や中国からの移民の人に混じってAdult School の語学学校、
アートカレッジに通い、魂を生きることを学び、
アメリカ国籍の女性と出会いで結婚して、グリーンカードを得ることになりました。
カーペンターとして働き、古い家を買い、直して売るということで資産を増やし、
アメリカでの生活の基盤を作りながら、生活は豊かになっていきました。
しかし。。。
本当になりたい自分の夢と現実の狭間で苦悩していました。
◾️アメリカで新たな転機、ヒーリングに目覚める
その頃、
日本人のグローバルなヨガティーチャー、氣の治療師であるMKさんとの出会い、
YOGAの個別指導を受けることとなりました。
新たな気づき!
体の歪み、こわばりはひどく、心身はとても傷ついていました。
衝撃的な氣の治療!
背骨に通る氣のエネルギー頭頂と尾てい骨から入り、
グググっと!
瞬時に腰の歪み改善、
氣の神秘!を体験しました。
その出会いから、心身を癒し整えることの大切さを知り
サンフランシスコのシバナンダヨガセンターに滞在し、
YOGAのティーチャーの資格を取得しました。
サンフランシスコ Bay Areaにある
Acupressure Institute of America, Berkeleyで様々なエネルギーワークを学びました。
JIN SHIN DO(仁神道)という日本発祥のエネルギーワークをグループで行っていた時に
幽体離脱を体験!
スピリチュアルな自己を体感しました。
その後
西洋レイキとの出会い
アチューンメント後のセッション中にも神秘的な体験をし、
その直後、日本に帰るように!ハイヤーマインドからのメッセージの導きのまま、
8年ぶりに日本に帰国する流れがスタートしました。
カリフォルニアでの様々な神秘体験と学びが、人生に大きな影響を与えることとなり、
ヒーラーとしての私が誕生 しました。
◾️世界一周
1994年アメリカから東回りに世界一周
世界の88カ所の聖地を巡礼しながら、日本に帰国することを決めました。
アメリカ大陸横断、ヨーロッパ、中東(イギリス、アイルランド、フランス、オランダ、ベルギー、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、スペイン、ポルトガル、イタリア、ギリシャ、エジプト、イスラエル、ヨルダン)の聖地巡礼し、旅しました。
半年後
タイに到着した後、悲劇
A型肝炎を発症して、日本に緊急帰国することに!
劇症肝炎であれば命を落とすところでしたが、2ヶ月半の入院と数ヶ月の療養で完治しました。
その闘病生活の体験の中で、
すべての希望、欲望、生きる意欲すら感じることのない自己喪失体験しました。
死ぬことへの恐怖さえなくなりました。
心と体は一つであるということを確信しました。
一度は死んだも同然の体験でしたが、
母の愛、家族の愛に癒され、
体力の回復とともに日本での生活が始まりました。
◾️会社員時代を経てヒーリングセラピスト・トレーナーとして独立
海外研修、国際交流の旅行会社の企画営業、英会話教室のマネージャー働きながら、
本当にやりたかったヒーリングの学びを深めていきました。
心理学、トランスパーソナル心理学、瞑想などのヒーリングを学ぶ中で、
まだ、自分自身の心に壁があり、癒しきれていないことに気づきました。
そして癒しを深めていきました。
その学びの末、
心理カウンセラー、
トレーナーとして独立
余談ですが、
私は父からの体罰、精神的な抑圧、威圧的な言葉など、相当な痛みを抱えていました。
母からのスキンシップ、愛情不足は自己肯定感のなさに繋がっていました。
セルフイメージは挫折感が強く、劣等感、コンプレックスで一杯でした。
インナーチャイルド、アダルトチルドレン、
潜在意識、無意識のトラウマを解放する100日以上のヒーリングを続けました。
ヒーリングセラピストになるため○百万円くらいの自己投資もしました。
光を降ろし
負を浄化して、
心身の痛みを解放する
光の柱となって、
世の中に貢献する使命を悟りました。
2000年東京でスピリチュアルカウンセラーとして活動をスタート
人生再誕生のヒーリングワークを主宰、
チャネリング、リーディングの師匠とのご縁によりリーディング力が開花。
多くのクライアントさんとの出会いを通して、
人生の成功、恋愛、結婚、起業など夢実現に貢献させていただいています。2010年レイキ法の土居裕先生より現代レイキマスターの認定を受けました。
現在もレイキセミナーも開催しています。
メタ・シークレットのトレーナートレーナー資格取得
エモーションコード、潜在意識と肉体の関係、筋反射を取り入れたヒーリングメソッドとの出会いで
癒しの加速化と再現性が格段に向上することになりました。
◾️宗教観
キリスト教、仏教、チベット密教、神道、ヒンズー教、ヨガ哲学、精神世界など、どの宗教も全て一つの神へとつながっていると信じています。
◾️統合メソッド確立
2015年エモーションコードとの出会い!!
氣アラインメントという形で、日本に伝えられたエモーションコードとの衝撃的な出会い!それまでのヒーリングセラピーの概念を超えた潜在意識へのアプローチ、そしてエネルギーの解放によって、全く違ったカウンセリング法を確立するに至りました。
それはキネシオロジー(筋反射)という神様からのギフトによって、潜在意識に直接アプローチし、情報を得ることができるというミラクルのようなアプローでした。
その後エモーションコード®️ ボディコード™️ プラクティショナーの資格を創始者のDr.Nelsonから認定を受けました。
更に、アクセスバーズ®️ アクセスコンシャスネスとの出会いを通じて更に進化を続けながら現在に至ります。
ハイヤースピリットから光のインスピレーションを得て、ハートの壁を解放し、本当の自分に目覚める、人生再生ReBIrthヒーリングコースが誕生しました。


◾️今、そして未来
現在はヒーリングサロンPlumeria経営
オンラインでも世界中どこからでも受けられる
ReBirthヒーリングコースを開講しています。

🔳ハートの壁を取り除く
ハートの壁を取り除く、ハートチャクラを開き、世界をハートを中心の
愛と光と豊かさの世界にする。
魂に目覚めた
光の柱となる人をプロデュースして、
本当の自分で生きる、
本当の自分で夢を実現する
心美人、心美男子に人生を再生させる活動を続けています。
エネルギーマスターの育成、
世界を癒すエネルギーカウンセラー、
ヒーラーを少数精鋭で行っています。
私は才能を引き出す才能があります。
